グイノ・ジェラール神父の説教



B 年

復活節の主日


キリストの聖体の主日

.

復活祭
復活節だ2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天
聖霊降臨
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日

          

            復活の主日 B    201841    グイノ・ジェラール神父

                使徒10,3437-43  コロサイ3,1-4  ヨハネ20,1-9

  復活の出来事を説明するために、聖ヨハネは何回も「見る」という単語を使っています。 マグダラのマリア、ペトロとヨハネは空になった墓、死者の亜麻布、そしてイエスの頭を包んでいる覆いを見ましたが、復活されたキリストを見ませんでした。 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっていると言う聖書の言葉を彼らはまだ理解していなかったのである」と聖ヨハネは言い訳しました。 この文章は、少し私たちを惑わせます。 復活のことを理解するために、どうして聖書の助けが必要でしょうか。 イエス自身が現れたらそれで十分な証拠ではないでしょうか。

  しかし、弟子たちが復活のことを信じるように、復活されたイエスは40日間の間、彼らに聖書のすべての個所を説明しました。 なぜなら、ご自分の手と足にある釘のを見せることもご自分の脇腹にトマスの手を入れさせることも十分ではありませんでしたから。 聖書の助けがなければ、復活を信じることはとても難しいです。 マグダラのマリアは数年前にイエスの癒しを受けたので、彼に対して限りない感謝を持っていました。 「彼女が信じた」と福音は言わないで、むしろ彼女は「生きているイエスを見た」と証ししています。 同時にイエスから選ばれたペトロは、イエスのことで夢中になっていました。 空になった墓を見てペトロは惑わされて信じませんでした、とヨハネは証ししています。

  聖ヨハネだけが、「見て信じた」と福音が述べています。 ヨハネはイエスに愛されている弟子だと私たちはよく知っています。 聖ヨハネはイエスの愛に包まれたお陰で信じるようになりました。 ヨハネの信仰は見ている物の中ではなく、彼の心と彼の人生の中にあります。 実は、復活を信じることは同時に神の言葉を理解することと愛されることです。 聖書を読むこととイエスの愛を受け止めること、これこそ信仰の門の両開きのドアです。

  目に見えるしるしは、信仰を与えることが出来ません。 目に見えるしるしは、人が愛するように強制することは出来ません。 「見ないで信じる人は幸いである」とキリストが言わなかったでしょうか。 恋人でない人にとっては、花束は何も意味を持っていません。 喉が渇いていない人にとって、一杯の冷たい水は意味がありません。 私たちを愛する人の愛は、普通は見えません。 愛が与えられるしるしは、目立たなくて小さいのでそれを心の眼差しで、また愛の眼差しで見分ける必要があります。 自分に与えられたイエスの愛のお陰で、聖ヨハネはペトロよりも速く走って墓に着きました。 自分に与えられたキリストの愛のお陰で、聖ヨハネは直ぐ信じました。 「イエスが愛しておられた弟子のヨハネは、信仰の面でペトロに先立っています」。

  復活の神秘を理解するためにイエスの弟子たちと同じように、私たちは聖書を読むこと、キリストの無限の愛とキリストの聖霊の力を受け止める必要があります。 ご存じのように復活の夜、イエスは集まった弟子たちに聖霊の力を豊かに与えるでしょう。 復活という出来事は、神ご自身のアイデンティティーを啓示します。 私たちの神は生きておられ永遠の愛で私たちを包みます。

  生きている神と親密に生きるように私たちは招かれています。 神は命を与え、またこの命を新たにします。 神の愛のお陰で私たちは信じることが出来ます。 生涯に亘ってイエスはこの愛を啓示しました。 そういう訳で、復活を信じることは私たちが神に愛されていることを信じることです。 神の愛で強められ、信仰の目で私たちはすべての出来事、またすべての物事を見るように学びましょう。 信頼のうちに心に納められた神の言葉が私たちに愛する力を成長させますように。 愛は必ず真理に導くのです。 今日、復活の喜びのうちに愛の完成まで聖霊が私たちを導くように祈りましょう。 アーメン。



        復活節第2主日 B年  201848日   グイノ・ジェラール神父

             使徒 4,32-35   1ヨハネ 5,1-6   ヨハネ 20,19-31

  週の初めの日、復活の夕方、弟子たちは同じ場所に集まっていました。 主が捕らえられた時に散らされ、主が殺された時に逃げた彼らはもう一度一致することを望んでいました。 弟子たちは今ユダヤ人を恐れていますが、暫くすると自分たちの間に存在するイエスの現存を体験するでしょう。

  イエスの弟子たちの明白な特徴といえば、彼らはどうしても集まりたいという強い決意でした。 信じる人は信仰の兄弟姉妹と出会うことを好み、一緒にイエスに祈り、共同体の中に存在する復活したイエスを褒め称えることを愛さなければなりません。 勿論、ミサ祭儀に与ることだけでは十分ではありません。 しかし各ミサ祭儀が社会の日常生活にキリストの証し人として私たちを形づくり遣わすのです。

  使徒たちの宣教の本によると、初代教会の信者たちが「毎日、ひたすら心を一つにしてエルサレムの神殿の『ソロモンの回廊』と呼ばれる場所に集まり、また家ごとに集まる」(参照:使徒2,463,11)習慣があったそうです。 神殿の回廊で、信者たちが一斉に集まって祈ったり賛美の歌をうたったりしている彼らを見て、人々は初めは好奇心をかきたてられていましたが、だんだん興味と感心を持ち、結局彼らと一致するようになりました。 このようにしてキリストを信じる人の数は非常に増えていきました。 そういう訳で、そのうえ迫害のために信者たちは小さなグループになり、大勢の人を受け止めるために広い家に集まることになりました。

  アジアのビチニア(注1)の総督であった古代ローマの作家であり政治家の小プリニウスは、キリスト者を逮捕し、彼らを裁判で拷問にかける命令を皇帝トラヤヌスから受けました。 165年にローマ皇帝トラヤヌスに宛てた手紙の中で次のように述べました。 「クリスチャンたちは皆同じことを認めました。 つまり彼らは朝早く、まだ暗いうちの決まった日に集まって出会い、キリストを神のように拝んで賛美と感謝の歌をうたう習慣があります」と。 また「ディオグネトスへの手紙(注意2)」も同じ証しをします。 「キリスト者は、他の人と国や言語、生活様式によって区別されません。 彼らは皆と同じ町に住み、皆と話す言葉も同じです。 彼らの習慣の中で特異なものはありません。 特に、キリスト者は毎日曜日に出会うことが大好きです」と。

  教会は昔からキリスト者たちが日曜日のミサに忠実に参加するように勧めています。 いくら私たちが日曜日のミサ祭儀に与れない正当な理由があっても、この週ごとの大切な集いなしには信者であることができません。 なぜなら、キリスト者はどうしてもキリストと一致しなければなりませんから。 日曜日のミサだけが私たちをキリストと共に一つの体、一つの霊、一つの心としますから。 ミサ祭儀はまた神に対して忠実であることや隣人愛を実践することに対して、私たちに重大な助けを与えます。 この共同体で皆と一緒にイエスは日曜日のミサ祭儀を通して愛の完成に導きます。

  いつくしみの日曜日に当たって、私たちの共同体がますます兄弟的な雰囲気を作りあげ、そして私たちの間におられるキリストの現存の印となるように私は祈ります。 更に、共同体から離れた大勢の信者(およその兄弟姉妹)が戻って来られるように祈ります。 彼らはいつかもう一度この共同体の中でキリストと一致する恵みを深く味わい、そしてキリストの充実している命に与るように切に皆様も祈りましょう。 アーメン。

 (注1)ビチニア…小アジア北部にあったローマの属州。 今日のトルコの北西部、イスタンブールから黒海の南岸に沿って東方に延びたあたりに位置していました。

 (注2)ディオグネトスへの手紙…使徒教父に入れられる一文書であるが、内容的に弁証文学である。 ディオグネトスなる人物に宛てて、キリスト教が異教やユダヤ教よりすぐれたものであることを弁証する。 異教の偶像礼拝、ユダヤ教の供え物を批判し、キリスト教の卓越性と神的起源が語られる。 信仰の喜びに生きるようすが語られ、キリスト教を受け入れるよう勧告する。



      復活節第3主日 B年   2018415日   グイノ・ジェラール神父

             使徒3,13-1517-19  1ヨハネ2,1-5  ルカ24,35-48

  聖ルカは自分の福音を通して、復活の日に起こったイエスの三つの出現について述べ伝えました。 一つ目は朝早くまだ暗いうちに墓に来た婦人たちとイエスとの出会い、二つ目はエマオの弟子たちとイエスとの出会い、そして三つ目は、恐れおののきうろたえている使徒たちへのイエスの出現です。 この三つの出会いを通して、聖ルカはイエスの復活の神秘的な出来事よりも、その出来事が意味することを語りました。

  聖ルカは身体的にキリストが真に復活したことを強調しています。 彼は異邦人、特にギリシア人のために福音を書きました。 なぜなら当時のギリシア人にとっては、イエスの復活は到底考えられないことでした。 というのは、ギリシア人は死後の生の存在(魂は生き残り体は消え失せること)を信じました。 つまり、死ぬと体によって奴隷とされていた魂がようやく自由になると信じていたのです。 もし復活するなら、魂はもう一度体の奴隷となるのです。 この考え方に対して、聖ルカはわざとイエスの復活の具体的な証拠を彼らに与えようとしました。 イエスの魂と体は同じ栄光に与っているので、亡霊ではないイエスに触れること、イエスと話すこと、そしてイエスと共に食事を分かち合うことができるのです。 しかし、生きていた時のキリストとは全く違った存在でした。

  とは言っても、聖ルカは復活されたイエスが生きていた時と同じように弟子たちを教え、教育し続けていることをよく見せています。 イエスは特に「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開きました。」 四十日間イエスが弟子たちと留まるのは、彼らが受難の必要性を理解するため、そして彼らを地の果てまで導く聖霊の賜物を受ける準備をするためでした。

  聖書を悟らせるために、イエスは私たちの心の目を開く必要があります。 神のみ言葉を理解するため、キリストの命に生きるため、また聖霊によって導かれるために私たちは神の知恵を受けることが大切です。 イエスが私たちのそばにいなければ、今の世界でキリストの証人となることは到底無理です。 幸いなことに、イエスは毎日世の終わりまで私たちと一緒におられます。 そして、終わりの日にイエスは私たちを復活させることを約束しました。(参照:ヨハネ6,40

  私たちはイエスが復活されたことを信じ、同時に私たちも復活することを信じて宣言します。 私たちが信じる理由は、イエスこそが神の生きたみ言葉であり、またご自分の御体と御血によって私たちを養い、さらに聖霊が私たちの心の内に住んでいるからです。 そして復活を信じるもう一つの理由は、私たちが洗礼によってキリストと一つの心、一つの魂、一つの霊となったからです。 確かに、各ミサ祭儀はイエスとの実際的な出会いです。 その時イエスはご自分の言葉と命で私たちを育て養い、そして復活について証しする力を豊かに与えているのです。 今日特に聖ルカの福音は、神の言葉とキリストの御体と御血で養われるように誘っています。 キリストの御体と御血によって養われ、聖霊に満たされてキリストのうちにあって、私たちが一つの体、一つの心となることを神は実現しますから、 今日のミサ祭儀を通して神に感謝しましょう。 またイエスが私たちに残した言葉を思い巡らしましょう。 「友のために自分の命を与えること、これ以上に大きな愛はない」(参照:ヨハネ15,13)と。 イエスは確かに、今日、今、ここでそれを実践します。 アーメン。



        復活節第4主日B年   2018422日   グイノ・ジェラール神父

                 使徒4,8-12  1ヨハネ3,1-2  ヨハネ10,11-18

  「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」こう言うことを書きながら聖ヨハネはキリストの恵みで神の子供になったことに感嘆しています。 自分を裁いている人の前で聖ペトロは「イエスの名によってしか救いは得られません」と恐れずに断言します。 イエスはご自分の羊の群れのために命を与えました。 そして、その羊たちは、良い牧者であるイエスが救い主であることを認めているのです。 イエスを信じている人たちは、イエスこそが彼らの一致を与える人だということを知っています。

  「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とイエスは約束しました。 しかし、彼の話が終った途端に、聞いたユダヤ人たちの間に対立が生じたと聖ヨハネは書きました。 ある人はイエスが悪霊に取りつかれていると言い、または気が変になったと言っています。 他の者たちはイエスのことを信じます。 何と言う憐れな光景でしょう。 良い牧者の足元で羊たちは既に分裂しています。 イエスが一致と集合を宣言したにも拘わらず、分裂と離散という結果になりました。

  イエスは私たち一人ひとりを個人的に知っていることを断言しました。 また、「父がイエスを知っているように、イエスが父を知っている」と教えるキリストは、同じ知識を持って私たちを知っています。 この知識は愛の関係を示しているのです。 愛で満たされたお互いの知識のうちに、イエスが私たちを知っています。 この愛で満たされた関係こそが私たちを神の子とします。 「私の羊は私の声を聞き分ける、私はその羊を知っている」とイエスは説明します。 イエスとの一致を守るためには、彼の声を聞くこと、言われたことを行うことがとても肝心です。 なぜなら、イエスの言葉は永遠であり、そして命を与えるからです。

  イエスは命を与えるだけではなくて、ご自分の命さえ与えるお方です。 自分の固有の命よりもイエスは私たちを愛しています。 終わりのない命で私たちを生かすために、愛のうちにイエスは自分の命を与えたことを、聖ヨハネは自分が書いた福音を通してずっと証ししようとしました。 イエスは死が閉じこもった人生、目的のない人生の門を開くために、良い牧者として十字架上でいけにえとして自分自身を捧げました。 確かに良い牧者であるイエスは真の命、永遠の命に私たちを導こうとします。

  ご存じのようにキリストの死と復活は、私たちが神と共に親密に生きる可能性を与えました。 私たちは実際に「神の子供たちです」と聖ヨハネは教えています。 この事実は神の神秘のうちに私たちを完全に入らせます。 「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(参照:コロサイ3,3)と、コロサイ教会の信徒に聖パウロは打ち明けました。

  「私たちはもはや自分自身のために生きることはできません。むしろ自分たちのために死んで復活したイエスのために生きて行かなければなりません」(参照:2コリント5,15)とパウロも言っています。 ですから、私たちに対する神の愛、この偉大な神秘を理解するために聖霊が助けるようにお互いのために祈りましょう。 いつか私たちもパウロのように次のことを宣言できればと思います。 「わたしが今生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(参照:ガラテ2,20)と。 アーメン。



        復活節第5主日 B年   2018429日   グイノ・ジェラール神父

               使徒9,26-31    1ヨハネ3,18-24   ヨハネ15,1-8

  ぶどう畑のイメージは、聖書全体に現れます。 洪水の後、新しい世界が始まるために、ノアはぶどう畑を作りました。 雅歌の書は、ぶどう畑の象徴を借りて「理想的な花嫁」を描きました。 詩篇とすべての預言者は、ぶどう畑がご自分の民に対する神の愛の契約であり、聖書全体はイスラエルの民を示しています。 しかしイエスにとって、ぶどう畑は神との一致、そして私たちの信仰に結ばれている人々の一致を表しています。

  実を結ぶためにぶどう畑は、年中、農夫の注意深い絶え間ない手入れを受ける必要があります。 手入れを受けないぶどう畑は、あっと言う間に荒れ果てて衰えます。 そういう訳で聖書に象徴されたぶどう畑は度々神とその民の間に結ばれた契約を示しています。 イスラエルの民は神を捨て、異邦人の神々である偶像礼拝に陥った時、民は酷い目に遭い、神の保護や安定した生活を失い、結局実を結ぶことが無理になります(参照:イザヤ60,2161,3)。

  「わたしはぶどうの木です」とイエスは断言します。 イエスはぶどうの幹で、私たちはその枝です。 私たちがイエスとしっかりと結ばれるように、良い農夫として父なる神は心血を注いで、私たちの世話をなさいます。 イエスが私たちの内に留まり、私たちもイエスの内に留まるように父なる神は強く望んでいます。 キリストに結ばれている人は豊かな実を結び、そしてイエスの言葉を喜びをもって聞き、言われたことを実践することができます。 イエスが私たちを愛の完成まで導く方であることをよく分かっています。

  私たちが出会うすべての試練、それは私たちがもっとより豊かな実を結ぶための神ご自身の手入れの印です。 ぶどう畑のイメージは、イエス・キリストと私たちの一致をはっきりと現しています。 活力を与えるぶどうの木であるキリストは、枝である私たちを強めるために樹液として私たちに活力を与えます。 言い換えれば主キリストの活力が弟子たちである私たち自身の活力となります。 キリストに従う人は、キリストが自分のうちに自由に働くことを承諾します。 ぶどうの木であるキリストは枝である私たちの人生に大切な意味を与えるので、結局実を結ぶのは枝ではなく、ぶどうの木です。

  キリストに自分自身をしっかり結び合うことは肝心です。 なぜなら、キリストから離れることは死ぬことを引き寄せるからです。 そういう訳でキリストから離れることがないように絶えず祈らなければなりません。 聖パウロに倣って、私たちも次のように言うべきです。 「わたしにとって、生きるとはキリストです」(フィリピ1, 21)。 あるいは「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテ2,20)と。

  祈る心で神の言葉とキリストの御体を歓迎するたびに、私たちは活力を与えるぶどうの木であるキリストの樹液を受け、それが私たちをキリストの内に変容します。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とイエスは断言しました。 キリストの言葉で清められ、キリストの体で聖とされている人はキリストの内に留まり、またキリストもその人の内に留まります(参照:ヨハネ 6,56)

  ですから、イエスが私たちに話す言葉を信仰の内に受け止めましょう。 「わたしのうちに留まっていなさい。 そうすれば、わたしもあなたがたのうちに留まります」と。 私たちが益々イエスに強く繋がれるように聖霊の助けを願って、豊かな実を結びましょう。 この実が神に栄光を与え、永遠に残りますように。 アーメン。



    復活節第6主日B年   20185月 6   グイノ・ジェラール神父

      使徒10,25-2634-3544-48  1ヨハネ4,7-10  ヨハネ15,9-17

  「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」と聖ヨハネは教えています。復活節という時は、イエスが私たちを復活させる機会です。言い換えれば、イエスが自由に私たちのうちに働く時です。その為に私たちは、キリストの愛に留まるように招かれています。ところで、イエスの愛に留まるとは具体的にどのようなことでしょうか。

  キリストのうちに留まりたい人は、長くイエスと出会う必要があります。それは、互いを互いにしみ込ませるためです。それを理解するために、接ぎ木のイメージの例をあげましょう。接ぎ木を作るために2つの切込みが必要です。1つは木のため、もう1つは組み合わせる枝のためです。そしてこの2つの切込みがピッタリするためにしっかりと紐でくくりつけます。そうすると、長い時間をかけて木の樹液が組み合わせた枝を生かそうとします。

  私たちがキリストによって生きるために、イエスは聖金曜日に脇腹の深い傷を受けました。私たちはイエスの直ぐそばに来て、自分たちの傷をキリストの傷と合わせてから、強い愛の絆でそれをしっかりと結び合います。このように傷と傷を合わせて、あるいは苦しみと苦しみを合わせて、キリストの内に留まることによって、復活したキリストの命の樹液が私たちを生かすでしょう。勿論、先ず私たちは自分の傷をはっきり認めてからキリストがそれを癒すように願わなければなりません。これこそ聖金曜日の朗読を通して預言者イザヤが告げ知らせていることです。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53,5)と。

  このようにしてペトロがイエスを3回否定した傷をキリストの傷と合わせて、彼と共に生きる平和と喜びを発見しました。この珍しい体験をしたペトロは、預言者イザヤの言葉を参考にして次のように宣言しました。「イエスは、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2,24)と。

  キリストの内に留まることは自分の失敗や受けた人生の傷にもかかわらず、キリストと親密に一致することです。私たちに対する神の愛は、私たちが示す神への愛を強めます。キリストに繋がっている私たちは、永遠に残る数多くの実を結ぶことが出来ます。愛のうちにキリストと一致すれば、私たちの行うこと全てが永遠の値打ちを受けます。日常生活の小さいことに対しても大きなことに対しても、充分愛を示すなら、私たちは自分の永遠の幸せを準備することが出来るのです。

  ですから、今こそキリストと共に生きること、キリストと共に復活することを学ばなければなりません。この世で生きている間に、死に打ち勝つこと、神の愛と隣人の愛の内に生きること、そして自分自身が命の泉となるように召されています。イエスは言われました「互いに愛し合いなさい、それが私の命令です」と。私たちの命であるキリストに親密に繋がっている状態だけで、私たちはこの掟を実践することが出来ます。なぜなら、愛の泉の水を飲まない人は、決して愛することが出来ないからです。アーメン。



       主の昇天 B年   018513日    グイノ・ジェラール神父

             使徒1,1-11   エフェソ 4,1-13   マルコ 16,15-20

  キリストの受難と復活と昇天は同じ事実を表す三つの段階です。 それはイエスのこの世界からの出発です。 大勢の人々が歴史的にキリストの受難を自分の目で見たとしても、主の復活と昇天の出来事は信仰の領域に属しています。 信仰宣言を唱える時に私たちは次のように証ししています。 「イエスは、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、3日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着きました」と。

  「見よ、わたしの僕は栄える。 はるかに高く上げられ、あがめられる」(参照:イザヤ 52,13)と預言者イザヤの口を通して神は約束しました。 それに対して、イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(参照:ヨハネ14,20)と教えていました。 父なる神と親密に一致しているイエスは、すべてのものの上にあげられたことをエフェソの信徒への手紙を書かれた聖パウロは説明をしました。 主の昇天の出来事が特にそれを私たちに教えています。

  私たちを圧迫し、神の子としての私たちの自由を妨げる全ての悪の力を神の右の座に着いたイエスは完全に支配します。 神の栄光の内におられるイエスはご自分の輝かしい勝利で私たちを包みました。 もはや「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8,38-39)。

  神の栄光の内に上げられたイエスは、人間が具体的に確かめることからまぬがれたので、信仰によってしか私たちは昇天の神秘を理解することができません。 主の名によって、ここで私たちが集まっていることが、私たちの信仰を強め、キリストと親密に私たちを結び付けます。 目に見える御聖体はイエスが生きていて、私たちがイエスの内に留まり、イエスも私たちの内に留まることを保証しています。 世の終わりまで、御聖体は私たちの間に存在するイエスの目に見える印です。

  私たちがキリストの体を形づくることやキリストに対する信仰と知識において、一つとなり、成熟した人間になることを聖パウロは、エフェソの信徒への手紙を通して、強く勧めています(参照:エフェソ 4, 12-13)

  地の果てまで弟子たちが遣わされるために、イエスは天に上げられたと福音史家たちが教えています。 またキリストが遣わし、私たちを豊かにする聖霊は私たちの間に新しい使徒、宣教師、指導者を呼び起こすのです。 彼らも地の果てまで救いの良い知らせを伝えるでしょう。 彼らは、言葉と行いによって、神の内に全人類が生かされている事や神と共に生きるように誘われている事を宣べ伝えるようにキリストによって遣わされています。

  聖マルコが証ししました。 主が天に上げられていても、地の果てまで遣わされた者たちと共に密接に働いています。 昇天の出来事はキリストの出発であるよりも、イエスの存在を新しいあり方で啓示した出来事です。 言い換えれば、イエスと共に、全人類は天に上げられました。 今からのち、そして永遠にキリストに親密に結ばれた全人類は神に属する一つの部分となりました。 それは、私たち一人ひとりが神の「愛によって造り上げられてゆく」(参照:エフェソ4,16)ためです。 信仰が要求するこの重大な神秘を悟らせるために、また実践するために、来週の聖霊降臨の祝日にあたって聖霊は私たちの上に豊かに注がれるでしょう。 アーメン。



            聖霊降臨の祭日  B年   2018520日   グイノ・ジェラール神父

                使徒1,2-11  ガラテヤ5,16-25  ヨハネ15,26-2716,12-15

 「ペンテコステ」または「五旬節」という言葉は、ユダヤ教の過越の五十日目を意味し、それは、つまり過越から七週間プラス一日のことです。 この伝統的な祝いは、収穫の祝い日です。 神から受けた豊かな穀物を感謝するために、人々は最初に刈り取った麦の束をささげます。 と同時に、神が民に与えたイスラエルの国の肥沃な土地のため、そして、その民と結ばれた契約がもたらす絶えることのない祝福のために、人々は五旬節を祝います。

 使徒言行録の話では、キリストによって「神の新しい民が選ばれ」、そして「その民と新しい永遠の契約が結ばれた」ことを教え説明します。 ちょうど人が役に立たない紙を破るように、キリストが死んだ時、エルサレムの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことは、神の旧約の契約が終わったことを具体的に示しました。 事実、過越の小羊であるキリストの血によって定められた新しい契約は、全世界に神の救いを提案します。

 聖書のすべての物語は、神がますます人々に近づきたいことをよく見せています。 しかし旧約聖書によれば、神と出会い、神に祈るために人々が飛び越えてはならない距離がいつも残っていました。 ご存知のように、旧約時代は一年に一回、大祭司だけが神殿の中に入ることが許されていました。 民はいつも神殿の境内で祈っていました。 主イエスのおかげで、神はもはや「私たちと共におられる神」ではなく「私たちのうちに留まる神」となりました。 そのために、私たちが神の留まる神殿となるように、イエスは私たちに聖霊を豊かにお与えになりました。

 聖霊は七つの賜物をもって私たちを形づくります。 それは、新しい約束された地として、私たちが神に豊かな穀物を実らせるためです。 また聖霊は私たちが世を照らす光となるように、私たちの心に普遍的な広さをつくり上げます。 私たちの信仰生活や祈りや愛が、限りのないものとして、世の果てまで私たちを導かなくてはなりません。 今日の聖パウロのガラテヤの信徒への手紙の言葉に従って「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って前進するべきです」(参照:ガラテヤ5,25)。

 聖霊降臨の日に生まれたキリストの教会は、聖霊に満たされているので絶えず前進します。ある文化、あるいは様々の伝統的なやり方などに教会は凝り固まってはいけません。 これこそが「カトリック」の所以であり、私たちの信仰宣言ではっきり教えているように「普遍的な教会」です。 昔の典礼が良かったと言って自分に閉じこもること、あるいは自分の信仰を持っていない人を無視し軽蔑することは、キリスト教的な態度ではありません。 聖霊の力がいつも他の人に向かって私たちを遣わすのは、その人を理解し慈しみで包むためです。

 聖霊降臨の出来事は、キリストの血によってあがなわれた人類を、愛の完成まで導く大きな道を開きました。 真理の霊はローマ教皇と司教たちだけに与えられているものではなく、すべてのキリスト者に与えられています。 そういう訳で、私たちは希望と幸せをもたらす言葉と行いによって、生き生きとした証を人々に与えなければなりません。 言い換えれば、聖霊には実現するべき、ただ一つの務めがあります。 それは「わたしたちを導いて真理をことごとく悟らせる」(参照:ヨハネ16,13)という務めです。

 「キリストを離れて、わたしたちは何もできません」(参照:ヨハネ15,5)。 しかし「私たちを強めてくださるイエスのお陰で、わたしたちにはすべてが可能です」(参照:フィリピ4,13)。 救いと愛の力である聖霊が私たちの弱さを通して、神が永遠の愛で私たちを愛すること、実にイエスが生きておられること、そしてキリストの教会が本当に光と真理の道であることを証しする勇気を与えますように。 アーメン。



        三位一体の祭日 B年  2018527日    グイノ・ジェラール神父

            申命記4,32-3439-40    ローマ 8,14-17   マタイ28,16-20

  「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 その人はキリストと共同の神の相続人です」と聖パウロは教えています。 「神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。 これほど大いなることがかつて起こったであろうか。 あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか」と、昔モーセが預言しました。 キリストにおける信仰によって、私たちは三位一体の神秘に入れていただきました。 「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(参照:ローマ5,1-5)と聖パウロは、ローマの信徒への手紙で説明しています。

  三位一体の神は神秘です。 自分は誰であるかを発見するために、私たちをご自分の似姿に創造された神の事実を知ることは最も大切な務めです。 三位一体の神秘は分かち合いの神秘です。 なぜなら、各ペルソナは他のペルソナを反映し、紹介し、愛のうちに大切にするからです。 イエスは次のようにこの神秘を説明しました。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『聖霊がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」(参照:ヨハネ16,15)と。 従って三位一体は真似るべき模範です。 「あなたたちは聖なる者となりなさい。 あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(参照:レビ記19,2)と神が願います。 そして「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(参照:ルカ6,36)とイエスは要求します。

  父なる神、そしてイエスと聖霊は唯一の聖なる神です。 三位一体の神を愛することによって、人は必ず他の人に向わせる真の愛、無償の愛を発見するように望みます。 自分の周りに居る人々を愛せずに、神を愛することができないからです。 「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と聖ヨハネは忠告しました。 この世にあって神の愛に輝いている人となるために、神はご自分の似姿に私たちを創造されました。

  私たちが愛することができる者、聖なる者となるように、イエスは毎日、世の終わりまで私たちと共に居ます。 ですから、神と親しく出会うために、今日よりももっと良い日があると思ったり、また神と共に神によって生きるためにもっと相応しい時があると探したりしないようにしましょう。 悲しくても悲しくなくても、試練と戦って、心の平安を味わい、神のに留まること、そしてたびたび自分の心と眼差しを神に向わせることを学びましょう。

  幼きイエズスの聖テレジアは「3分以上神のことを考えずに生きることができなかった」ことを謙遜に認めました。 私たちは彼女を真似ることができなくても、せめて自分のうちにおられ、自分のすぐ傍におられる神の現存に気を配るように努力しましょう。

  私たちはイエス・キリストの名によって、そして聖霊によって、父なる神に向けて「アッバ、父よ」と叫ぶことを恐れてはいけません。 このようにすることで私たちは、前よりも、もっと深く三位一体の神秘と人間の神秘は切り離せない神秘だと悟るでしょう。 聖パウロが断言したように、私たちは本当に「神の子であり、キリストと共同の神の相続人です」。 アーメン。



        キリストの聖体の祭日 B年  2018年6月3日   グイノ・ジェラール神父

             出エジプト24,3-8  ヘブライ 9,11-15  マルコ 14,12-16,22-26

   出エジプト記とヘブライ人への手紙は、神とイスラエルの民を結び合う契約が動物の血によって締結されたことを説明しています。 私たちにとって血は深い傷や殺害や手術などを思い起こします。 しかし、古代文明の人々にとって血は命を意味しました。 血まみれの生贄(いけにえ)を献げることや人に血を振り掛けること、あるいは動物の血を飲むことは「命を祝うこと」と「長く生きる希望」を表していました。

   従って、古代文明の祭司たちは動物ののどを切って殺す肉屋さんのような人でした。 献げられた動物が神々に喜ばれる、良い生贄となるために、各祭司は正しく動物を屠ることを学んでいました。 完全な大祭司であるイエスは世の救いのためにご自分の血を献げました。 十字架上で流されたキリストの血が、すべての動物の血まみれの生贄を終わらせました。 そして「イエスを新しい永遠の契約の仲介者」として定めました。 ミサ祭儀に与るたびに、私たちはイエスの言葉を思い巡らしています。 「これは、わたしの血の杯、新しい永遠の契約の血である」と。

   この新しい契約のお陰で、私たちはキリストに親密に結ばれた状態で、自分たちの日常生活の中に、キリストの人生の最も大切な部分を取り入れることができます。 絶えずイエスは私たちにご自分の命を与え続け、流された血が罪の攻撃から私たちを守ります。 そういう訳で、昔のように私たちはミサのことを「ミサの生贄」と言わずに「感謝の祭儀」と言います。 と言うのは、私たちの救いのために受けた様々な恵みに対して神に感謝するからです。

  ほんの少しのパン、ほんの少しのぶどう酒、それは取るに足りないものですが、それなしには聖体の秘跡を行うことやキリストの現存を実現することはできません。 私たちも取るに足りない者であり、欠点と弱さを持っている者ですが、自分自身の乏しさを神に献げることによって、それが世界の人々に与えられている「キリストの現存の秘跡」に変化させられます。 「山を動かすために」(参考:マルコ11,23)、「地上に火を投ずるために」(参考:ルカ12,49)人の心に触れるように神はどうしても私たちの乏しい祈りと力のない努力を要求します。

  今日、私たちはキリストの聖体を祝っています。 この信仰の神秘は、十字架上で流されたキリストの御体と御血がすべての時代に及ぶこと、主の名によってここに集まっている私たちを潤すことを思い起こさせます。 糧として自分の御体と御血を与えることによって、父なる神の愛が私たちと共に全人類を生かし、聖とするようにイエスは強く望んでいます。 ミサ祭儀からミサ祭儀まで、イエスは私たちのうちに肉の体を取り、それにより私たちが愛で満たされている共同体の中で彼の神秘的な体となるためです。

  永遠の命のパンである聖体は「永遠の婚宴の食事」(参考:黙示録19,4-9)を思い起こすので、必ずこの秘跡が私たちを他の人と共に未来に向わせます。 ですから、未来に向って、自分自身のうちに「終わりのない喜びへの望み」を強め、養いましょう。

   キリストの体を食べ、キリストの血を飲むたびに、父なる神の国に私たちを導き入れる主の栄光に輝く再臨を待ち望み、宣言します。 聖霊で満たされてイエスの聖体を誉め歌い、神に感謝しましょう。 そして世界に広がっているキリストの教会と共に、信仰の神秘を宣言し、声を高らかにして叫びましょう。 「マラナタ。 主よ、来てください」(参考:黙示録22,20)と。 アーメン。



                               トップページに戻る